トルコ料理の歴史的発展

オスマン時代から共和国まで

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トルコ人が歴史上暮らしてきたさまざまな土地とそこの食材は、トルコの食文化の形成に大きく貢献した。

 

中央アジアで農業と畜産業を営んでいたトルコ人はやがてアナトリアに移住し、アナトリア・セルジューク朝を建てた。アナトリアの大地でこれまで知らなかった食品に出会ったトルコ人は、この新たな食材で調理法を発展させ豊かな料理を作りあげた。

 

この時代に活躍したメヴラーナ・ジェラレッディン・ルーミーが確立した宗教哲学スーフィズムにおいて、台所の位置はとても重要である。テッケ(神秘主義教団の集会所)に入りたい者は皆、台所での雑用からその道を始めていたのだ。

 

今日のトルコ料理の基礎はオスマン帝国期の宮廷料理から成っている。最初は決して華やかではない食事をしていたスルタンたちが、だんだんと食卓を豊富なものとしていった。特に重要視される時代はファーティヒ・スルタン・メフメトの1453年イスタンブル征服から始まる。彼はオスマン帝国の全土から料理人や異なる食材を持ってこさせた。さらに、彼の時代に宮廷に初めて海産物が取り入れられるようになった。

 

宮廷の調理場では計60人のコック、200人のスタッフが働いていて、毎日4000人に料理を作っていた。もちろんこの数は、宰相会議の日やバイラム、軍の出征日には3、4倍になる。

 

トプカプ宮殿にはダイニングが全くなかった。というのも食事の時間には料理が大きなトレーに乗せられ、食事が運ばれてきたからだ。布の上に皿が並び、地べたに座って食事をしていた。スルタンはいつも一人で食事をしていて、手で食べるのが通常であった。唯一使われるとするならば、スプーンがあった。食事中におしゃべり、笑い、歌、必要以上に食べることはよくないとされていた。オスマン帝国期には一日2食で、朝早く朝食、日没前の夕食だけであった。

 

調理場を一つの組織としてみると、オスマン時代の宮廷料理人、スタッフたちは上下関係を重視していた。また、宮廷料理の別の特徴はオスマン帝国がどれほど金持ちで強かったかを親しい相手や敵に示す点にもあった。

 

19世紀末にオスマン帝国の弱体化は進み、「瀕死の病人」と言われるようになり、オスマン人たちはヨーロッパの国々との関係改善、共感を得るために生活様式の改革に努力した。例えば皇帝はバロック、ロココ、ネオクラシック、クラシック・オスマン様式でつくられたドルマバフチェ宮殿に移り、テーブルと椅子で、フォークとナイフでの食事をし始めた。

 

1923年にトルコ共和国が建国されると、トルコ料理は二つに分けて研究されるようになった。古典トルコ料理と民族料理である。古典トルコ料理はオスマン時代の宮廷料理の豊富な食文化のことであり、今日のトルコ料理の元はこれである。民族料理はトルコのいろいろな地域の食文化に加え、国内の様々な民族の食文化のことである。

 

翻訳者:岩田紗知

情報源:www.turkish-cuisine.org

 


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